今日の聖書個所では、一人の男性が主イエスによって癒されています。そしてこの出来事が、ユダヤ人たちの更なる敵意・殺意につながっていきます。


 まず癒しの出来事です。1~9節前半です。3節後半から4節が省かれていて、ヨハネ福音書の最後にあります。これは、恐らくは元のヨハネにはなくて、後に書き加えられたと考えられているからです。尤も、あってもなくても本質的には変わらないでしょう。


 今日は、日本キリスト教団では、平和聖日です。この日に、この聖書個所が与えられたのは、興味深いことです。なぜなら、この個所では、癒されたくてこの池に来た人々が、いわばライバルです。しかもこの池に最初に入れば癒される(真偽のほどは分かりませんが)というので、様々な人が手伝ってもらおうと家族や友人を伴って来ています。


 そんな中で、この人は、38年も病気で苦しんでいました。自分を助けてくれる家族も友人も期待できないのでしょう。この人物に主イエスは声をかけます。「良くなりたいか」。この問いはあまりにも当たり前すぎて、こんなふうに問うのは不自然でしょうか。私は今、伝道・牧会36年目です。38年というのは、決して短い時間ではありません。もしかすると、彼は既に、心の中では癒されることを諦めてしまっていて、惰性でここにいるだけかもしれません。しかし主イエスはこのように問うことで、彼を本来の願い・望みへと引き戻されたのではないでしょうか。


 そして主イエスは、この人を癒されます。その出来事が安息日であったので、ユダヤ人たちはここでも裁き始めます。9節後半から16節です。ユダヤ人たちは、主イエスが安息日の主であることを認めません。


 そして主イエスは、はっきり仰います。17・18節です。当時は、安息日は働かないで休むべきだということの根拠は、創世記にあるように、神もまた六日で世界を創造されて、七日目(土曜日)は休まれたのだから、自分たちもそうするべきだという考え方がありました。私達も、日曜日ですが、安息日を守りますから、彼らの言うことも分からなくはありません。しかし.主イエスは安息日でもなお働いておられる神をみています。だから、安息日のきまりよりも、一人ひとりを大切になさいます。