前回(先週)は、サマリアの女の記事でした。そして今日の個所では、ガリラヤに行っています。43~45節です。この「預言者は…」というのは、共観福音書ほど文脈に合っていません。あえていえば、敬われない中で、王の役人だけは違っていたということでしょう。


 王の役人は、病気で瀕死の息子の事で頭が一杯です。何とか息子が癒されるように、と、主イエスの所に来ます。46~48節です。何とか癒されるようにという必死の役人・父親に対して、主イエスの対応は厳しいものです。49節です。ヨハネによる福音書がユダヤ人の信仰の問題点について一番厳しく指摘していることです。純粋に信じるべきだから信じるのではなくて、しるしや不思議な業があってはじめて信じるという姿勢です。


 役人は更に懇願し、主イエスは応えます。49・50節前半です。主イエスの問題提起には触れもしないで、役人はただ重ねて願います。


 そして50節後半、今日の中心になる出来事です。主イエスの言葉を信じて帰っていきます。何か証拠があるから、とかではありません。主イエスの言葉があって、それをただ信じます。その結果は、51~54節です。証拠があれば信じてやるという態度は、主イエスが十字架の上で殺される時もそうでした。信じるとは、証拠があって、だから信じるというのではなくて、証拠がなくても、その一点にかけて、信じます。そしてその信仰が認められます。この役人・父親の場合には、そこから、家族全体の信仰になっていきます。私達が信じた時にも、これと同じことが起こったのではないでしょうか。証拠があるから信じたのではなくて、信じた私達に様々な主イエスの恵みがあります。