普段はヨハネによる福音書の講解説教をしていますが、今日は召天者記念礼拝ですので、講解説教をお休みして、ローマの信徒への手紙です。
アダムという一人の人によって、罪が入り込んだように、イエス・キリストという一人の人によって、恵みがもたらされました。21節です。罪は死によって支配していました。今日先に召された方々を覚えて礼拝を献げているのですが、その死、それぞれの死をどう捉えるのでしょうか。もしも死が全ての終わりだとすると、私達のしていることは、虚しいことになってしまいます。私達は死をそのようには捉えません。確かに地上における命は、その方の死をもって終ります。しかし、主イエスが十字架に殺されてから三日目に復活せしめられたことが示しているように、死は全ての終わりではありません。恵みが義によって支配しています。
だから、私達の主イエス・キリストを通して、永遠の命に導かれています。永遠の命とは何でしょうか。子どもの頃、CSの先生に、永遠に生きるのは飽きてしまうのではないか、と、尋ねたことがあります。皆さんならばどうお答えになるでしょうか。永遠とは、現在がただ時間的にずっと続くのではなくて、次元の異なることです。私達が刹那的な存在から、神の時間軸に移されます。神と共に永遠を生きます。
そして信仰の先達方は、この世での死をもって消えてなくなってしまったのではなくて、神と共にそしてキリストと共に永遠の命を生きていると信じるから、こうして記念礼拝をするのです。午後には、墓前礼拝をしますが、これも、死者が埋葬されている場所で礼拝をするという意識ではありません。復活の場所だから、礼拝します。
信仰の先達方を偲びつつ、また、再び神の国(天国)でお会いすることを期待しましょう。

