今日の聖書個所は、この位置にくるには少し不自然なところがあります。例えば21節では、「一つの業」とありますが、これは5章のベトザタの池でのことでしょう。5章から続けて読むとよく分かります。これは安息日のことですから、ユダヤ人たちはますます主イエスを殺そうとねらうようになります(5章18節)。
さて、前回の個所では、主イエスは弟たちの意見には従わないで、祭りに上っていくことはしません。しかしやはり大切な祭りだからでしょうか、後からこっそり上っていかれます。10~13節です。権力をもったユダヤ人を人々は恐れて、公然と語ることはできません。
主イエスは祭りも半ばになるころ、神殿の境内で教えます。14~18節です。主イエスの語る言葉は、主イエスから出たものではなくて、神から出たものなので、真実であり、自分の栄光は求めません。ただ主なる神の栄光を求めます。その違いは、神の御心を行おうとする者には分かります。それは信実な人であり、不義がありません。
そして主イエスはモーセの話をします。19~24節です。主イエスの「私を殺そうとするのか」という問いは、この個所ではこの問いは唐突です。しかしベトザタの池の個所と繋げて読むとよく分かります。彼らは、「誰が…」と問い返します(20節)。分かっていません。当時安息日を大切にずるといいながら、割礼は例外とされていました。主イエスが、安息日の主として、「全身を癒した」ことを愛息日規定に反したからと責める、裁くのは間違っていると分かりません。
正しい裁きというのは、難しいものです。私達も常に正しい裁きを求めつつも、なかなかそうはいきません。だからこそ、主イエスを見倣って正しい裁きを求め続けます。

