今日の聖書個所は、前回の個所からまっすぐにつながっている。前回の聖書個所で主イエスが語られたのは、ご自身の無力だった。尤もそれは、単に無力だというのではなくて、ただ父なる神がなさるままになさるのであって、自分で独自にどうこうすることはないという意味だ。


 前回の個所、前々回の個所からの今日の主イエスの発言への繋がりは、まず主イエスが二つの癒しの業を行ったことだ。一つは王の役人の息子の治癒だ。今一つはベトザタの池にいた人物だ。


 そしてそれに対して「ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった」(18節)からだ。それは、主イエスを神の子(神と等しい者)とは決して認めようとしないユダヤ人たちの罪のゆえだった。主イエスは、このユダヤ人たちの罪の広さ、深さ、激しさをよく知っておられるので(例えば2章25節など)、語られる。31~40節R。自分自身についての証で思い起こすのは、「記憶にございません」という決まり文句だ。本当のことを語れば、その件で罪に問われかねない。しかし嘘をつけば、偽証罪になってしまう。そこで生み出されたのが、この「記憶ございません」だ。このことからも、自分に関する証があてにならないことはよく分かる。


 それとは真逆に、主イエスであれば、正しい証もできるだろう。しかし、主イエスはそれすらも父なる神に委ねておられる。そしてユダヤ人たちは、父なる神がお遣わしになった主イエスを信じないので、証が分からない。(旧約)聖書は、主イエスについて証しているのに、主イエスとは別の「永遠の命」を求めて、主イエスのところへ来ようとしないので、分からない。


 それは、モーセ(5書)についても言えることだ。彼らは、そこに主イエスをみないから、実際にはモーセを読んでいることにならない。


 私達の内には、証も誉れもない。ただ、主イエスのゆえに、私達は、父なる神の「お声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない」のに、主イエス(父がお遣わしになった方)を信じることで、神への愛(42節)を生きるのだ。