ニコデモとの対話の後に主イエスはユダヤ地方に行きます。範囲が広いので詳しい場所は分かりません。22~24節です。主イエスが洗礼を授けたという記事は、次の4章2節によれば、実際には弟子たちです。投獄される前のヨハネも、洗礼を授けていました。そして、25~30節です。洗礼者ヨハネは、主イエスとその弟子たちの方が人気があるからといって、嫉妬するのではありません。それどころか、喜びます。主イエスが花婿であって、自分はその介添え人だという自覚があります。「あの方は栄え、私は衰えねばならない」(30節)と言います。それは、諦めや失望ではありません、喜んでいるのですから。


 そして31節からの個所は、本来もっと前の個所にあるはずだ、などの指摘もあります。しかし私達は、とても素直にこの個所にある ものとして読みましょう。31節です。主イエスは、上から・天から来られる方なので、全てのものの上におられます。


 32~35節をみましょう。32節の「受け入れない」はかなり厳しい言葉です。これだけでは、闇に終ります。しかし続けて、33節が語られます。事実関係としては32節と矛盾しますが、父なる神が子に与えた権能を思えば、よく分かることです。私達は、主イエスを抜きにして人間として考えれば、確かに「地に属する者」として、主イエスの証を受け入れません。しかしそんな私達に神の言葉を語って、信じる者に変えてくださるという奇跡を主イエスは起してくださいます。繰り返し何度でも。


 父なる神から、全てを委ねられた方として、主イエスはまた、私達に神の言葉を語り、私達に神の言葉を委ねてくださいます。私達もまた、神から主イエスに委ねられています。そして35節です。私達の姿は、主イエスを抜きにして考えれば、神の怒りがその上にとどまるしかない存在です。しかし主イエスが十字架に死んでとりなしてくださるので、永遠の命にあずかります。神の怒りがとどまり続ける人生ではなくて、将来に永遠の命を約束された者たちとして、今を生きましょう。