前回は五千人の給食の後で、主イエスが湖の上を歩いた個所でした。以前にも申し上げましたように、6章はその全体をまとめてみるべきです。その中心にあるのが、「私が命のパンである(35節)」という主イエスのお言葉です。この言葉を目指して、今日の聖書個所をみていきましょう。


 まず、その翌日です。22~25節です。主イエスを王にしてしまおう(15節)とした群衆です。一晩経ってもその興奮は冷めやりません。主イエスが湖の上を歩いたことを群衆は知りませんから、「いつ、ここに」とは素直な質問でしょう。そして主イエスは答えます。26・27節です。かなり厳しい言葉ですが、主イエスは、群衆の思いを見ぬいておられます。「パンを食べて満腹したからだ」。永遠の命に至る食べ物(朽ちてしまうパンではなくて)のために働くことを主イエスは求めます。


 28節の群衆の態度は、よく分かります。彼らは神の業を行うためにどうしたらよいか分かりません。主イエスは率直に仰います。28・29節です。神がお遣わしになった方である主イエスを信じることが、神の業です。私たちも知っている信仰義認です。そのことのための前提条件など何もないはずです。


 しかし彼らは更にいうのです。30~33節です。マンナはモーセが与えたのではなくて、神がモーセを通して与えたものです。しかも目の前に神の子である主イエスがおられるのに、更なる「しるし」を求めています。この福音書では、多く場合、人々の罪は「しるし」を求めることであり、ここでもそうです。主イエスは、世に命を与えるパンを語ります。


 彼らは更に要求し、主は一番大切な言葉をもって答えます。34・35節です。サマリアの女との対話を思い出します。私達は、飢えることがなく、渇くことがない主イエスと共に生きる道を選びとり続けましょう。