前回でヨハネによる福音書のプロローグを終って、今日から本文に入ります。といいましても、いきなり主イエスの話ではなくて、まずは洗礼者ヨハネの証しです。19~24節です。まずヨハネが証しするのは、自分はメシア・キリストではないということです。当時、ヨハネはヨルダン川で洗礼を授けていました(25節参照)。だから、メシアなのではないかという問いが生まれます。それに対してヨハネははっきりと否定します。質問をする人々は、エルサレムのユダヤ人から派遣された祭司やレビ人です。それは当時のユダヤの権力者の派遣だということです。


 もしかすると、ヨハネが本当に正しい権威に基づいて洗礼を授けているのならば、自分たちも受けようという可能性を完全に否定することはできません。しかし恐らくは、自分たちには権威があると思い込んでいた権力者たちは、自分たちの許可もなく勝手に洗礼を授けるヨハネを排除したいのです。洗礼の意味は、時代によって変わります。私たちキリスト教会は、一生に一度限りの出来事として大切にしています(幼児洗礼の話、再洗礼派の話など)。しかしまた、時代によっては、単に悔い改めのしるしとして、何回も洗礼を受けることもありました。だからヨハネの洗礼は、キリスト者になるときの一回限りのものではありません。


 25~28節。ヨハネは、直接主イエスの名前は出しませんが、主イエスについて証しします。履物の紐を解くのは、当時奴隷の仕事ですから、自分には奴隷ほどの値打ちもないと語っています。


 ヨハネ福音書記者は、洗礼者ヨハネと主イエスの関係をまず、きちんと位置づけます。私達も、洗礼者ヨハネが、主イエスの先触れであることを今一度心に刻みましょう。