前回は、キリストの僕、神の僕として生きるときに、私達は信実な意味で自由を生きるという箇所でした。


 今日から具体的な人間関係で、この事実をみていきます。最初は、召し使いです。これは家付きの奴隷という言葉です。18~20節です。前回みましたように、私達の行動の規範は、何が正しいかではなくて、何が神の御心であるか、です。正義という観点でいえば、無慈悲な主人に心から敬って仕えることはおかしいです。せいぜい嫌がりながらも表面的には従うことでしょう。しかし良い主人に心から仕え、無慈悲な主人には渋々仕えるのでは、普通のことです。私達に求められているのは、普通を越えること、善を行って神の御心に従うことです。


 そしてそこには、キリストという模範がおられます。後半、21~25節です。なぜ私達が無慈悲な主人に仕え、善を行って苦しみを受けても耐え忍ぶのでしょうか。主イエスがそうなさったからです。理不尽に苦しみを受け、十字架という死刑で殺されても、正しくお裁きになる神に全てを委ねられました。私達の罪を担ってくださいました。


 だから、私達も、理不尽な主人に対して心を込めて仕えます。私達はいやされて、神のもとへと帰って来た神の民です。


 それは、罪に対して死んで、義によって生きることです。もはや私達は、相手がどうであるか(罪人か、悪人か、良い人か)に関係なく、まっすぐ義によって生きます。