前回までに、たとえ試練・迫害があってもなお喜んでいることができるという事実が述べられました。それは、信仰の実りとして、既に今魂の救いを受けているからです。その救いの完成は、終わりの日・再臨の日を待ちますが、既に今、私達はこの救いによってすばらしい喜びに満ちあふれています。そしてこの救い・福音は、かつての預言者たちも、また天使も願い求めていたものでした。
今日の聖書箇所では、そのような私達がどのように歩むべきかが示されています。まず13節です。ひたすら待ち望むことです。まだ実現はしていなくても、将来確かに与えられる恵みを、今待ち望みます。それは、聖なるものになることです。14~16節です。聖なる者とは、いわゆる聖人君子のようなものではありません。神が、そしてキリストが聖なる者であるように、聖なる者になりなさいということです。これは、神のために特別に分けられた、聖別された者です。それは、聖人のような立派な人ということではなくて、主イエスの生きた姿を思い、主イエスに倣って(真似をして)生きます。
そこにあるのは、父なる神への畏れです。17~19節です。キリストの尊い血によって贖われた者として生きることです。ここでも、私達が地上にいるのは、仮住まいだいうことを確認します。私達の本国は天にあります。
最後に、20・21節です。私達の信仰と希望は、神にかかっています。まずキリストは二千年前に現れたのではなくて、天地創造の前からであり、終わりの時代に現れてくださいました。そしてこのキリストを復活させて栄光をお与えになったのは、父なる神です。だから、私達の信仰と希望とは、神にかかっています。

