今回は長老に対する勧めであり、また長老に指導される若者への勧めです。前回の箇所に「今こそ、神の家から裁きが始まる時」とありました(4章17節)。神の家、すなわち私達教会から裁きがはじまる。だから、私達教会は誰よりもまず、裁きに備えることが必要です。

 まず1節です。長老というのは、今の教会ですと、牧師も含めて役員のことですが、当時のまだ教会の制度や職制が未発達のときにどういう意味であったかは分かりません。この箇所から読み取れるのは、教会という群れを養い育む指導者だということです。神の裁きに耐えるように、指導者はどうあるべきか。具体的な中身は、2~4節です。どれももっともなことです。そしてそうすれば大牧者イエス・キリストが表れるとき、神の裁きの時にしぼむことのない栄冠を受けます。


 そして、若い人たちには、長老に従うことが求められます。5節前半です。更に、すべての人に求められるのが、謙遜です。5節後半です。鍵括弧の言葉は、箴言3章34節ですが、70人訳なので、少し表現が違います。ある方は、私達の人間存在の本質が謙遜とはかけ離れているからこそ、「謙遜になる」と語られず、「謙遜を身に着ける」となっているのだと言います。

 そのお手本はキリストです(フィリピ2章1~11節)。見せ掛けだけの謙遜ならば、私達にもできるかもしれませんが、このキリストの謙遜は、本来私達にはないものです。だからこそ、私達はキリストに従う者たちとして、このキリストの謙遜を自分の内側から出てくるものとしてではなく、キリストに倣う事柄として身に着けることが必要です。そうしてこそ、神の恵みを受けることになります。