前回は、互いに愛し合うことが勧められていました。そしてその関連で、主の・神の言葉が永遠に変わることがないと、語られていました。


 今回は更にもう一つ先の勧めです。まず、1・2節です。最初の「悪意、 偽り、偽善、ねたみ、悪口」は、全て悪いものであって、当然捨て去るべきものです。わたしたちは、キリスト者として、そのように努力して生きています。というよりも、世間の方々が楽しんでいる悪が、近づけるのもいやな、気持ち悪いものになります。尤も難しいのが、何が悪口で何が正当な評価かの境目が分かりづらく,簡単に偽善になってしまうことでしょう。その対極にあるのが、「混じりけのない霊の乳」です。これは、キリストそのものとか、キリストにかかわる教え、教会の教えなど様々に捉えることができます。誰でも聖霊を受けてキリスト者になったばかりのときには、この乳が必要です。


 更にキリスト者になったのであれば、3・4節です。どこでわたしたちは正しい判断を学ぶのでしょうか。主イエス・キリストが恵み深い方であることを味わって、この主のもとに来ることによってです。
 そしてそれは、私達自身が生きた石として用いられることになります。5~8節です。こうして、教会というキリストの体が形作られます。


 そういう私達が担うべき使命は、広く伝えることです。9・10節です。なぜなら私達は、選ばれた民、…だからです。更にこれは、神の民となって憐れみを受けたことです。私達の人生は、この憐れみを受けた者として、キリストに近づいて生きるか、自分への神の憐れみを無視して、自分勝手に生きるか、そのどちらかです。