今日の説教題は、珍しく「?」をつけました。聖書箇所は短いのですけれども、解釈上、少し問題のある箇所です。41節と44節は、反語だと考えるのが自然です。つまり単純に、「ダビデの子なのか」という疑問ではなくて、いやダビデの子ではないという言明だと捉えることができます。しかし一方で、主イエスは「ダビデの子」という言い方を受け入れてますし、使徒言行録やパウロも、これを前提としています。
つまり彼らユダヤ人のもつ、キリスト・メシアは、ダビデの子(子孫)だということは受け入れつつも、彼らのイメージするようなキリストではないのだということです。彼らは、ローマ帝国の植民地支配に抗して、独立国としてのユダヤ(イスラエル)を立ち上げるような英雄を求めていました。
主イエスは確かにメシア・キリストであられますけれども、そういう英雄とは全く異なる方であることを私達は知っています。42・43節をご覧ください。これは、詩編110編1節です。この詩編にも(よくあるように)ダビデの詩と書いてあります。しかし近代以降の学問的な研究の成果として、ダビデ以外の誰かが書いたと考えられています。しかし主イエスは、当時の普通の読み方に倣って、主なる神が、王であるキリスト・メシアに語っていると読んでいます。だから、ダビデが主と呼ぶメシアがなぜダビデの子孫なのかという議論になります。
私達は、主イエスの御苦しみを思うレントにあたって、今一度メシア・キリストに深く思いを馳せましょう。