キリストの支配 ペトロの手紙一3章17~22節

 まず、17節です。よく分かります。悪を行って苦しむのは、当たり前です。神の御心によって、善を行って苦しむほうが良い。


 その見本・手本はキリストご自身です。18節です。最初のポイントは、「ただ一度」です。大祭司が毎年一度至聖所でささげる献げ物と異なり、主イエスは一度限りで十分です。それは、私達を神のもとへと導くためであり、キリストは肉では死に渡されましたが、霊において生きる者とされました。肉においては、十字架に殺されました。しかしその主イエスを神は復活せしめて、生きる者とされました。
 話は、ノアの出来事にうつります。19・20節前半。ノアとその家族、8人以外は、洪水で滅びたと言います。その滅びた人々をも救うために主イエスは活動なさいました。そして救われたほうの8人が洗礼のプロトタイプとして描かれます。


 20節後半・21節です。洗礼の意味は、肉の穢れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。サクラメント(秘跡)は、カトリックでは7つありました。しかし私達プロテスタントは、それを二つにしぼりました。洗礼と聖餐です。しかし、誰でも聖餐にあずかることができるのだとしたら、それをサクラメントに数えるのは無理があります。更に洗礼をも、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることだとしたら、サクラメントとは何か、私達は今一度神の前にサクラメントとは何か、考え直す必要があるかもしれません。


 いずれにせよ、22節です。まず、私達が信仰告白・使徒信条で毎週告白しておりますように、キリストは神の右におられます。そして、キリストの支配は、天使も権威や権力もそれに服しています。


 この世界の様々な出来事は、まるでそれを否定するかのようです。神の平和はいつまでも訪れないかのようです。しかし私達はこの世界の様々な、私達人間の罪によって引き起こされる事象よりも、キリストの支配の現実のほうが勝ることを見失ってはなりません。