前回の聖書箇所は、何のために例え話がなされたのか、最初にきちんと描かれていました。今日の例え話も誰に対してこの例えが語られているのか、最初に描かれています。9節です。自分は正しいとうぬぼれて他人を見下している人たちです。これはもう、例えがはじまる前から、否定的な対応です。12節までにそのような人の具体例があります。10~12節です。いわば模範的な姿です。しかしただ一つの問題は、そういう自分を誇って他者を見下していることです。彼は言葉に出していなくても、心の内にそういう傲慢な心をもっています。


 彼の何が問題なのか。その傲慢さが問題です。自分は神に評価されるはずだ、十分立派な行いをしていると思い込んでいます。しかし後半の徴税人をみると、彼の過ちははっきりしています。13節です。


 まず第一に私達が神の前に立つとき、自分と他者を比較する余裕などありません。なぜなら、私達はそもそも神の前にたち得ない罪人であることを知っているからです(この徴税人のように)。


 私達は、このファリサイ派の人よりも、徴税人に自分を重ねます。しかしそこで、第二に、私達は、「このファリサイ派の人のように傲慢ではなく徴税のように謙遜であることを感謝する」信条になりはしないでしょうか。それは、ファリサイ派の人の罪と真逆のようでありながら、全く同じ罪を犯しているのではないでしょうか。


 私達は、自分が罪人だと自覚して神の前に立つ時でさえ、この同じ罪をおかすことが多いのです。神の前には、たった一人で立つしかないこと、そこでは、他者と比較する余裕などないという当たり前のことはを心に刻みましょう。私達は、心の底から神の前に胸を打ちながら、罪人の私を赦してください、と、願い求める信仰を生き続けるこそができるように、求めましょう。14節です。