今日の聖書箇所は、前回と逆になっています。前回申し上げたように、今日の箇所が召天者記念礼拝に相応しいからです。


 まず、ファリサイ派の人々は主イエスに尋ねます。21節前半です。こういう問いが出てくるのも尤もです。主イエスが、4章のような説教を繰り返していたとすれば、当然出てくる問いです。「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した。」(21節)のですから、それならば、肝心の神の国はいつ来るのかという問いも尤もです。


 しかしこの問いの背景には、主イエスがだれなのか、また主イエスがここにおられるとはどういうことなのかが分かっていないという問題があります。神の国とは、神の支配です。主イエスがここにおられるということは、ここに神の支配がはじまっているということです。目の前に主イエスがおられます。これは、ここに神の国がはじまっているということです。しかしファリサイ派の人々は気が付きません。


 主イエスはなんと答えるのでしょう。20節後半・21節です。既にここに神の国はきているのだと、主イエスは直接答えるのではありません。なぜならこのことに気が付いた人にとってだけ、これは分かることだからです。見える形では来ない。ただ、あなたがたの間にある。このことが語られているのが、主イエスの弟子たちではなくて、ファリサイ派の人々だということに注目してください。主イエスの弟子になったから、神の国が分かるというのではなくて、たとえ多少心理的な距離があるとしても、主イエスの救いに触れた者はみな、「ああここに、私達の間に神の国はあるのだ」と思ってよいのです。


 そして今一度、この神の国(神の支配)や終末を教会がどう捉えてきたかを振り返っておきましょう。神の国は既に主イエスが来られたことによって、私達の間にきています。しかしそれが完全に誰の目にも明らかな形で分かるのは、終末・再臨の時を待ちます。そこで、先に召された方々には二つの可能性がありますが、どちらにせよ終末・再臨のときには、同じでしょう。


 新しい一週間、今ここにおられる主イエスと共に歩みましょう。