今日の聖書箇所では、一人の女性が病を癒されています。10~13節です。しかし主イエスが癒されたのが安息日であったために、文句を言う人がいました。14節です。確かに、18年間もこの状態であったのだから、それが一日伸びえところであまり変わらないではないか、それよりも安息日を守るべきだというのは、尤もな意見のようです。しかしそこで問題なのは、この女に対する憐れみ・愛・関心がないことです。安息日を共に喜び祝うことよりも、形式的に安息日を守ることを優先する発想・考えの貧弱さが問題です。今まで18年も苦しんできたのです。一日位変わらないだろうという安直な考えではなくて、共に安息日を喜ぶことができないことへの痛み・悲しみがないことが問題です。


 だから主イエスは仰います。15・16節です。それに対する人々の反応は、他の箇所よりもまっとうです。17節です。恥じ入ることと喜ぶこと。


 更に、この出来事が神の国のはじまりであることを、主イエスは言葉を重ねて語ります。18~20節です。からし種とパン種の例えです。神の国のはじまりは、実に小さなものです。とても小さなからし種のように。しかし大きく成長します。主イエスが礼拝におられて、一人の女性が病を癒されるように、小さな出来事です。しかしそこから、神の国・神様の支配ははじまっています。この礼拝も同じです。ここから神の国がはじまっています。私達が主イエスの救いを信じ、神の国を今生きはじめるときに、ここに神の国がはじまっています。このいつも新しくはじまる神の国を私達は喜んで生き抜いていきましょう。