前回(先週)の聖書箇所で既に、主人のものを自分たちのものにしようとする農夫たちの罪が描かれていました。それは、主人の愛する息子を殺すに至ります。神のものを自分のものだと主張する罪です。
今日の聖書箇所では、そのような罪が、税金問答という仕方で、とても政治的社会的な問題との係わりで指摘されています。彼らの罠は明らかです。もしも「税金を納めるべきだ」といえば、ローマ帝国の植民地支配に反感を抱いていた民衆の支持を失います。かといって、「税金を納めてはならない」といえば、ローマ帝国の権力に逆らうことになります。
どちらに答えてもまずい、そういういわば究極の問いがなされています。それに対して、25節のように、主イエスは見事に答えます。これは、主イエスの賢さ・知恵を表すものです。しかしそれだけではありません。この主イエスの答えをみると、皇帝のものと神のものがあるかのようです。しかしそうではありません。前回みましたように、全ては神のものであり、私達は一時的に神からあずかっているだけです。だから、神のものは神に、というのは、全てを神に、ということです。
勿論、農夫たちに全ての収穫を収奪しようとしたわけではなくて、多くを任せる主人と同様に、神も私達からすべてを取り上げようというのではありません。私達は自分にあずけられているものを正しく用いることが求められています。