今日の聖書箇所で、まず問題になるのは、「巧みな作り話」とはどういうものかということです。1節です。巧みな作り話で考えられていることは、キリスト教信仰とは似て非なるグノーシスなどです。知識を積み重ねていくことで、神の知識にまで至ると考えます。それと対照的にこの手紙の著者が語るのは、「目撃」です。キリストの威光を目撃したことから話がはじまります。


 17・18節です。実際に目撃し、聞いたことの話のほうが間違いなく確かです。「巧みな作り話」は、私達人間の頭の中でこねくりまわして作ったものです。しかし神の声や威光は、私達人間の中からは出てこないものです。


 19節です。預言の言葉は確かなものとなっています。それとは対照的にその確かな預言の言葉が、輝く灯火となるのは、暗い所です。ここに暗示されているのは、迫害です。迫害の只中にあって、預言の言葉を暗い所で輝くともし火のように大切にして、迫害の嵐を乗り越えていきます。


 そこで気を付けるべきことが、最後の2節です。20・21節です。自分勝手に解釈しないことです。難しいのは、何が自分勝手な解釈で(キリスト教系の新興宗教にはそういうものが必ず含まれています)、何が正しい解釈かの判断です。なぜ自分勝手な解釈ではいけないかというと、21節にあるように、預言は人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて、神からの言葉を語ったからです。


 私達人間の語る言葉がこの世界にはあふれています。こそに最近のメディアやSNSの発達によって、私達人間が処理しきれないほどの情報量になっています。印刷・複製したものも刷り増しが容易になったことで、あふれています。それだからこそ、何が神からの言葉で、何がそうでないかを判断できる力を身に付けることが大切です。