まだこの手紙は終らないのですが、今日の聖書箇所は、「終りに」とはじまっています。手紙を終るつもりでこの箇所を書き始めたけれども、終らなかったということでしょう。まず、8・9節です。悪をもって悪に対する、侮辱をもって侮辱に報いるのは、普通のあり方でしょう。しかしあなたがたはそうであってはならない。むしろ、そういう悪を行ない侮辱する人たちに対して、祝福を祈ります。それこそが、主イエスご自身がなさったことであり、私達キリスト教会が二千年にわたって心がけてきたことてす。尤も実際にそうできたかというと、はなはだ心もとないのですが。


 私達は祝福を受け継ぐために召されたのだという確かな自覚こそが、祝福を祈ることを可能にします。次の三つの節は、詩編34編の引用です。


 次の2節は、13節は、本来の姿です。しかし実際には、14節のように苦しみを受けることもあります。そのときに、人々を恐れたり心を乱したりしないようにと、求められています。神を恐れ、キリストを恐れて生きるときに、私達は人間を恐れなくなります。キリスト教信仰を生きる者が、なぜいつも堂々としているか、それは神を恐れることを知っているからです。だから、人々を恐れるのではなくて、人々のために祝福を祈ることができます。


 それは、別の言い方をすれば、キリストを主と崇める心を知っていることです。15・16節です。キリストを崇めることがおろそかになれば、私達の心には、人々を恐れる心が忍び込んできます。私達人間は、たとえキリスト者になってもやはり弱いので、油断すれば、隙をつかれてしまいます。さあ新しい一週間、主を崇めるゆえに、何ものも恐れず祝福を祈りましょう。私達は既に祝福を受け継ぐために召されているのですから。