今日の聖書箇所は、何のためにこの例え話がなされたのか、最初にきちんと描かれています。1節です。気を落とさずに絶えず祈ることの大切さが語られています。しかしこのたとえに出てくる裁判官はかなりひどい人物です。2節です。正しい裁きは、神への正しい恐れに基づいています。少なくとも「上なる存在」への恐れがないと(例えばお天道様は全てみている、など)、ばれなければ何をしてもいいという倫理観の欠如に繋がってしまうでしょう。
しかしそこに一人のやもめがいます。当時の社会ではやもめはとても立場が弱く、不利な立場でした。何についての争いが分かりませんが、恐らく彼女のほうが正しいのでしょう。3~5節です。正しい裁きを行うためではなくて、面倒を避けるためにこの裁判官は、やもめのために裁きます。
神への祈り、願い求めもこれに似たところがあるのだと主イエスは仰います。6~8節前半です。勿論、神はこの裁判官とは違います。「まして神は」という言葉がそれを指し示しています。ただし、「速やかに」と言っても、私達人間と神とでは時間感覚が全く異なることは知っていなければなりません(モーセのときを参照)
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私達にできることは、「神は私達の祈りを知っておられ聞き届けてくださる」ことを信じて、祈り続けることです。諦めないで、倦み疲れることなく、祈り続けることです。それは確かに難しいことですが、私達の祈りが「御心のままに」と祈れるところまで、祈り続けます。
それは難しいことなので、主イエスは最後に仰います。8節後半です。これは、「どうせ無理だろう」という意味ではありません。そうではなくて、主イエスが私達を信仰へと招く招きの言葉です。