今日の聖書箇所前半では、いよいよエルサレムが見えてきます。41~44節です。ルカによる福音書の中で唯一主イエスが泣く、涙を流される箇所です。神の都であるはずのエルサレムが、平和への道をわきまえないからです。見えないからです。主イエスが来られたことによる、神が訪れる時をわきまえなかったからです。こうして、紀元70年、ローマ帝国によって、滅びを迎えます。主イエスは既にそのことを見据えておられます。ではエルサレムはどのようにわきまえればよかったのでしょう。ザアカイの姿、また徴税認の姿(18章13節)が参考になります。実は神の前に立ち得ない自分を知って、それゆえにただ神の憐れみを求めます。ここに平和への道があります。


 ところが当時のエルサレム、また神殿の様子はそれとは全く異なるものでした。45・46節です。この出来事の書き方としては、マルコやマタイに比べてルカはおとなしい描き方をしています。ただ、心得ておきたいことは、(主イエスが最も暴力的であるといわれる)この出来事においてさえ、主イエスは人間に暴力をふるってはおられないことです。ただ祈りの家であるはずの神殿で(主イエスは子どもの頃にこの神殿を私の父の家と言っておられます)商売をしている。そのことを「強盗の巣」という過激な表現で語っておられます。


 そして、指導者たちは、主イエスを殺そうと狙います。今日の箇所ではまだ彼らの目論見は達成しませんが、十字架に至ります。47・48節です。


 主イエスの涙は、このときだけのことではないでしょう。せっかく主イエスがきておられるのに、まるでまだ救い主がおられないかのように生きている全ての人々への涙でしょう。


 またもしも私達がキリスト者となって、主イエスの後に従っていく決意をしたはずであるのに、まるで主イエスがおられないかのように生きているとしたら、また、私たちのための涙でもあります。