今日の聖書箇所では、主イエスが最後の受難予告をなさいます。今まで何度も受難予告はされてきましたが、弟子たちは理解しません。今日の箇所もそうです。34節です。彼ら弟子たちが理解できなかったのは、この言葉の意味が隠されていたからです。なぜ隠されていたのでしょうか。それが神の計画だからです。
事実、十字架と復活の出来事が起こってはじめて、弟子たちはその意味を知り、宣教に赴きます。エマオへの途上でも、主イエスは隠されていたので(24章)、二人は気が付きません。しかし主イエスがいなくなってから、「私達の心は燃えていたではないか」と言います。
私達も当初は、理解できません。それが、ベールが剥がされるようにして、分かるようになります。クリスマスの直前にこの純な予告が与えられたのは、実に意味深いことだと思います。また、新会堂一回目のこの記念すべき礼拝で、この箇所が与えられました。私達は、再臨・終末の時まで、主の死を告げ知らせつつ、歩み続けます。教会の建物が新しくても古くても、いや建物すらないとしても、行ない続けることは同じです。主の受難と復活の出来事が、一人ひとりにとって何であるかを告げ知らせ続けます。
31~33節をみましょう。この新しい会堂でも、主の十字架を伝え、また復活の恵みを伝え続けましょう。