今日の聖書箇所は、ある議員の問いからはじまっています。18節です。この後、この人は「子どもの時から守ってきました」と語っていますから、本人の努力だけではなくて、そのように育てられていたことが分かります。19=21節です。


 このようにいわば立派に生きていた彼が、どうしても最後に残った問い、それは永遠の命を受け継ぐことができるかどうかでした。刹那的な、今だけ主義ではなければ、この永遠の命の問題というのは、とても大切な事柄です。しかし彼はどんなに立派に生きても、自分には永遠の命が与えられている、受け継ぐことができるのだという核心が持てませんでした。きちんとした根拠もなく、「大丈夫」と思い込むのも危険なことですが、どう努力しても確信が核心がもてなていのも、辛いことでしょう。
 だから彼は、主イエスに尋ねたのです。それに対して主イエスは答えます、22節です。彼が確信を持てない本当の理由、婚本的な問題は、神への信頼の欠如です。「神がおられるから大丈夫」となるときに、私達は安心して安らぐことができます。しかし彼はそうではありません。宗教改革者ルターを思い起こします。かれは、カトリックののとても厳しい修行にも絶えて、そうして自分の救いの確信を得ようとしました。しかし自分のどのような立派な行ないによっても確信を持つことはできませんでした。そして、信仰義認にたどりつきます。


 この主イエスと(金持ちの)青年の対話はそこへ、ただ神にのみよりたのんで、それゆえ自分の「何か」には頼らない道の第一歩です。つまり主イエスはここで、全ての人が自分の財産を全て貧しい人々に分けて、主イエスに従うことを求めておられるのではありません。金持ちであったからこそ、彼はつまずきます。23節です。


 この後の主イエスと弟子たちの対話の急所は、27節です。「人間にはできないことも神にはできる」。金持ちが神の国に入ることは実に難しいのです。しかし「神にはできる」。私達はこの言葉に励まされて、今信仰を生きます。