説教題を決めた後で気が付いたのですが、この題だと放蕩息子は兄で、その弟という読み方のほうが普通かもしれません。確かに次回みますように、兄もある意味で放蕩息子かもしれませんが、今日は弟の話です。つまり「の」は同格の「の」です。


 この弟の放蕩ぶりは、誰にでも分かると思います。11~16節です。放蕩で身を持ち崩すというのはよくある話です。その典型といってもよいでしょう。そして大きな転換が、17節の「我に返る」でしょう。17~19節です。彼はもはや息子として迎え入れられることは望みません。ただ雇い人の一人でもよいから、父のもとに戻ろうとします。


 しかしそんな彼を父は最大限のもてなしで歓迎します。20~24節です。まず息子がまだ遠くにいるのに父親が見つけたというのは、日々息子が帰ってこないかと、父親は待っていたということでしょう。一番よい服、指輪、履物、肥えた子牛、全て最上級のもてなしです。これは冷たく扱われると思っていた弟息子にとっては、予想外の出来事でしょう。それほどに、父親・神の慶びは大きいということです。公平さという観点から言えば、これは馬鹿げたことでしょう。しかし神の愛は、このように実に大きな、私達の秤でははかりきれないものです。よく考えてください。もしも神が私達を公平に正しく裁かれるとしたら、私達の誰が救いに相応しいなどといえるでしょうか。相応しくない私達をそれでも救ってくださるのが、神の大きな愛です。そのように深く広く大きく神に愛されていることを思って、感謝と慶びを生きましょう。