今日の箇所は、「ちょうどそのとき」ではじまっています。「そのとき」とは、12章で語られていたような「とき」です。きちんと備えて待つこと、今の時を見分けることの大切さを主イエスがお語りになりました。
「ちょうどそのとき」、とても悲惨なニュースが飛び込んできます。1~3節です。詳しい事情は分かりませんが、エルサレムでガリラヤの人々が祭壇に供え物をしようとしているときに、ローマの総督ピラトが虐殺を行ったのでしょう。この報告をした人々は、直接的な答えを主イエスに求めていませんが、そこに「なぜ?」という問いがあったことは明白です。
当時は因果応報の捉え方が普通でした。何かが起こればそれには理由があるはずだと考えます。そういう捉え方を主イエスは明白に否定しています。ヨハネによる福音書の生まれつき目が見えない人の出来事を参照。
主イエスが明確に否定しておられるにも関わらず、現代においてもなお、因果応報の捉え方は力をもっています。すべては因果で説明できないとしても、ある程度は説明がつくというのです。確かにそういう面もあるかもしれません。
しかしこの箇所のガリラヤ人の虐殺は、説明がつきません。そして主イエスは、この出来事は罪深さのゆえではない、あなたがたも悔い改めなければ、同じように滅びると仰います。4・5節は、多くの人々が知っているシロアムの事件を引き合いに出すことで、補強しています。
では、「悔い改める」とは何でしょうか。私達の本来の居場所、神のもとへ立ち返ることです。それこそが、災難や因果を越えて、私達が生きる仕方です。ではそのことに対して主イエスはどのように関わってくださるのでしょうか。6~9節です。すぐにも切り倒されるはずの私達が、園丁・主イエスがとりなしてくださっています。