ペンテコステ、おめでとうございます。今日は別名、教会の誕生日と言われます。主イエスが天に上られた後、弟子たちはどうしたらよいか分からず集まって祈っておりました。そこへ聖霊が降って、教会がはじまりました。使徒言行録にその記事があります。しかし今日は一回、ルカによる福音書の講解説教をお休みして、教団聖書日課に聴きます。
今日の聖書箇所の直前には、弟子たちが麦の穂を摘んだ記事と、安息日であるにもかかわらず、主イエスが片手の萎えた人を癒す記事があります。その主イエスの癒しの業をみて、ファリサイ派の人々が主イエスを殺す相談をはじめることから出来事がはじまります。14節です。
そして主イエスはどうなさったのか。人々を煽動して反乱を起こさせるのではありません。ただ静かに去っていきます。15・16節です。その姿は全く勇ましくはありません。癒しはなさいますが、言いふらさないようにと注意します。
そしてこのような主イエスのなさりようを、マタイは、イザヤ書42章の苦難の僕の歌の実現だと読み取ります。17~21節です。今日この箇所の全体を読み解くことはいたしません。最後の21節に集中します。ペンテコステに起こった出来事は何であったのか。それは、私達ユダヤ人ではない異邦人も、望みをかけることのできる名前が与えられたということです。教会はユダヤ人だけのものではないし、また異邦人だけのものでもありません。共に「主の名に望みをおく」群れです。ここでは、人殺しを正しいというような誤った正義はありません。傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない正義があります。多くの国々、人々が正義の名のもとに罪を犯します。それに抗して、今にも折れそうな葦を守り、今にも消えそうな灯心を消さない、弱く小さな私達を守り導いてくださる正義があります。