今日の聖書箇所は、乳飲み子、幼子、子どもたちを主イエスが祝福なさる箇所です。私は、現在は、「親子で遊ぼう会」に来る子どもたち位しか、触れ合う機会もないのですが、幕張に来る前、26年間の内16年間は保育園や幼稚園の子どもたちと接点がありました。それですから、「子どものように神の国を受け入れる人」とはどういう人か、よく考えてきました。


 尤も主イエスはこの箇所で、それがどういう人なのか、語りません。そしてそれも意味のあることでしょう。それがどういうことか、私達が分からないなりに思い巡らすことが大切です。


 どういう意味か、今日考察しますが、それ以上それ以外の意味もあるでしょう。どういう意味なのが、再臨・終末のときにははっきりするでしょう。それまで私達は思い巡らせ続けることが大切です。
 それはまず第一に、素直だということでしょう。私達は大人になるにつれて、物事を様々に複雑に考えるようになります。しかし子どもは(子どもなりに複雑に考えはするでしょうが)素直です。私達は子どもの頃には、とても素直に保護者と向き合います(だからこそ、幼児虐待の問題は難しくなるのですが)。私達に求められているのは、幼い頃に素直であったように、神に対して素直であることです。
 第二に、神にのみよりたのむことです。私達は、財産や人間関係、地位や名誉など、この世界の様々なものによりたのみます。そうではなくて、ただまっすぐに神によりたのむことが大切です。長く信仰生活を送る人のもつ、単純さ・素直さ・率直さ・シンプルさこそ、私達は願い求め続けましょう。