今日の聖書箇所では、まずファリサイ派の人々が主イエスをあざ笑います。14節です。なぜ笑うのでしょうか。二つの可能性があります。一つには、自分たちはまっすぐに神に従っているのだという自身です。神か富かなどという問いを立てるまでもなく、神に従っているだというのです。いま一つは、本音と建前を見事に使い分けています。本音ではお金が大すきだけれども、建前としては神に従うのです。どちらの読み方も可能です。彼らの、自分の正しさをみせびらかす偽善を主イエスは見抜いておられて、語ります。15節です。神は、人間とは異なる視点で物事をみます。当時の社会で模範的であるファリサイ派的なあり方が偽善に過ぎず、神が喜ぶものではないことを主イエスは見抜いておられます。
 今がどんな時か。既に神の国の福音が告げ知らされています。律法と預言者の時は終り、神が見出して喜ぶ時(羊、銀貨、放蕩息子)です。16~18節です。「だれもが力ずくでそこに入ろうとしている」の読み方について。律法の文字の一画がなくなるのは、天地が消え失せるよりも難しいです。律法はそれほどに強固なものであって、当時の人々が法的に離婚は可能だとしたよりも、もっと主イエスは律法を大事に考えます。しかしそれ以上に、神の国のこの世界への突入によって新しい時代が来ています。神の国、神の支配ははじまっています。それが未だに来ていないかのように殺し合い続ける人々を平和の神は嘆いておられます。教派の隔てをこえて共に聖餐の恵みにあずかる世界聖餐日の今日、全ての隔てを越える神の平和の恵みを喜びましょう。