前回は最後に、キリストの支配について語られていました。今日は、そのキリストが肉の苦しみをお受けになったことから話がはじまります。1節です。これは、鞭打たれたりつばをかけられたりすることだけではなくて、十字架の死までを含みます。そしてこのキリストを模範・手本として生きるとは、同じ心構えで武装することです。またそれは罪とのかかわりを絶つことです。


 洗礼を受けてキリスト者となったならば、そういう志をもったはずです。それは人間の欲望から離れることです。神の御心に従って生きることです。2~5節です。


 しかし私達の「残りの生涯」を思うときに、この志がいい加減に、中途半端になってしってはいないでしょうか。私達は実に上手に言い訳をする生き物です。なぜ神の御心を最優先にしないで生きるのか、幾らでも言い訳します。しかしそれでも、生きている者と死んだ者を裁く方の前に申し開きをしなければなりません。


 今日偲んでいる信仰の先達が皆、模範的な素晴らしいキリスト者であられたわけではありません。私達同様に、迷ったり躓いたりしたでしょう。しかし、罪との係わりを絶って、神の御心に従おうとなさったのではないでしょうか。


 6節です。キリストはよみにまでくだり、よみをも御言葉で満たしてくださいました。だから、私達はたとえこの世に生きている間は、中途半端にしか生きられなくても、それでも神の御心を大切に生きられたキリストに望みをおいて生きてよいのです。


 これは別の言い方をすれば、祈りつつ愛し合うことです。8節です。私達は神の御心に従って生き抜くことなどできません。しかし主イエスはそのように生きられた。この主に信頼して生きることだけが、私達にできることですし、それで十分です。愛は多くの罪を覆います。私達が罪赦された罪人にすぎないにしても、私達の罪は、キリストにならって行う、私達の愛の行為によって、覆われます。この恵みに感謝して生きましょう。