今日の聖書箇所は安息日のことです。安息日には、礼拝の後で食事をする習慣があったようです。1・2節です。水腫を患っている人というのがどういう方なのかよく分かりませんけれども、むくみを伴う、見るとすぐに分かるような病であったようです。ファリサイ派の議員の家にその方がおられたことがまず疑問です。律法を破って神の掟をないがしろにした人が水腫になると思い込んでいた時代ですから、ファリサイ派の人が家に招くとは思えません。


 そこで二つの可能性があります。一つには、恐らく主イエスはその日に説教をしましたから、当然のように招かれた。そして主イエスがこの人を招いたのではないか、という推測です。いま一つは、主イエスを罠にかけようとして、この水腫の方も同席させたのではないかという推測です。イエスの様子をうかがっていたのですから、そういう可能性もあります。彼らの罠なのか、あえて主イエスが招かれたのかは分かりませんが、主イエスは彼らの思いを読み取って語られます。3節です。彼らはこの問いに答えることができません。そして黙っています。4~6節です。ここでも他の様々な箇所と同様に、理屈だけでいえば、主イエスに反論することもできます。緊急性の問題だ、という仕方で。しかし13章の腰の曲がった婦人の箇所を思い出してください(特に17節)。


 心の中では、主イエスに対して「安息日に癒すなどもってのほかだ、してはならない」と思っていても、彼らは誰もそう言えません。


 そして主イエスは例えを語ります。7~11節です。この世の知恵のようにもみえます。ことにこの日本という国では、こういう考え方はとても強いです。しかし主イエスは当たり前のこの世界の知恵を語っておられるのでしょうか。そうではありません。後で上席に移されることを期待して末席に座るのではなくて、主イエスがこの世界にいらして、仕えられるためではなくて仕えるために生きられたように、私達もまた主イエスに従う者として、仕える者になる、そのように低くなることが大切です。最後の12~14節は、この世界で報いを受けてしまっては、神の国での報いはないのだから、報いを求めないで生きることの大切さです。この水腫の人は、病のゆえに主イエスに招かれました。私達もまた、自分の低さをきちんと自覚する時に、主イエスは招いてくださいます。