今日の聖書箇所は、二つの章にまたがっています。章や節は後の時代に便宜上つけられたものであって本来はありません。今日の聖書箇所の前半と後半も(18章のファリサイ派と徴税人ほどではありませんが)はっきりと対照をなしています。


 前半45~47節は、見せ掛けばかりの律法学者の人々に気を付けなさいという箇所です。後半はそれとは逆に生活費の全てを献げるやもめの話です。1~4節です。レプトンとは、当時一番小さな銅貨で、128分の一デナリオンだそうです。金額としてはとてもわずかなものです。だから「誰よりもたくさん」というのが、金額の話でないことは明らかです。


 それでは割合の問題でしょうか。確かにそうです。しかしこれが献金についての模範だということになりますと、私達は皆困ってしまうのではないでしょうか。全てのものを献げてしまうというのは、後は破綻してもよいというのでない限り、初代教会の原始共産制をみるまでもなく、持続可能性はありません。


 私達は、様々な理屈をこねるまでもなく、このレプトン2枚の話をみると、どこかうしろめたいような気持ちになるのではないでしょうか。私にはとてもこのやもめのように、全財産を献げることはできないからです。


 このやもめの姿と、これから十字架に向かう主イエスの姿が重なります。このやもめは、生活費すら考えないで神に全てを献げ、そうして神に全てを委ねました。これは、十字架で全てを神に献げて、自分の命さえも注ぎだしてしまった主イエスの姿に重なるのではないでしょうか。


 私達は、この主イエスとあるいはまたこのやもめと全く同じになることはできません。そういう私達のために主イエスは、私達に代わって十字架に死んでくださいました。レントの今、この主イエスに思いを馳せつつ歩みましょう。