今日の聖書箇所のペトロの裏切りは、前回のユダの裏切りとはかなり異なります。ユダの裏切りは能動的ですが、ペトロの裏切りは消極的だなどとも言われます。また気が付いたときに、激しく泣いたこともあるでしょう。また結果も、ユダの悲惨な自殺と、初代教会の使徒として働くペトロと、大きな違いはあります。様々な方々が様々なことを述べています。しかし私達人間の判断で、この違いを見抜くことなどできないでしょう。ユダの救いについても、様々なことが述べられてきました。


 しかしやはり一番大きな違いは、主イエスの祈りではないでしょうか(32節)。私達人間は、積極的であれ消極的であれ、主イエスを裏切ることしかできない弱い存在です。しかし主イエスが祈ってくださるから、主イエスに従いゆくことができます。


 ペトロが否認した経緯をみましょう54~60節です。ペトロも最初は、否認する気などなかったでしょう。33節のように覚悟していました。しかし不意な声駆けによって、虚を衝かれました。私達が間違えてしまうのも、多くはそういう場合ではないでしょうか。私達はそのとき、激しく泣くことしかできません。


 そして、鶏が鳴いた後で、ルカにだけ描かれる記事があります。61節です。主イエスがペトロを見つめます。主イエスの眼差しに捕らえられて、ペトロは自分の過ちに気づきます。


 私達も生身の主イエスと目が合うことはありませんが、祈りにおいて、主イエスに導かれて、立ち返ることができます。