今日の聖書箇所、本来は20節からです。しかし今日は、次回の召天者記念礼拝にこの箇所を読むために。今までファリサイ派の人々に語っていたのを、弟子たちに向き直って、弟子たちに語る22節からの箇所を取り上げます。
主イエスは、35節まで一気に語ります。幾つかに分けてみてみましょう。まず22~24節です。まず最初に語られるのは、人の子(主イエス)が来られるのは、「その日」突然だということです。主イエスが昇天なさった後、人々はみることのできない日々がきます。そして偽りの人々が、「見よ…」と言います。そういう偽りの言葉に載せられてはなりません。突然です。
しかしその前にまず、人の子は排斥されます。25節です。ここには、これから起こる十字架の出来事が予告されいます。当時の宗教的に熱心な人々は、人の子・神の子、主イエスが救い主として現れては困ります。だから、排斥します。むしろこの十字架の出来事こそが、人々・私達にとって救いになることが分かりません。
そして主イエスは、ノア・ロトの時と同じように、突然だと仰います。26~29節です。
そして人の子が現れるとき(再臨のとき)も同じです。30~35節です。そのとき、後ろを振り返ってはなりません。印象的なのは、ロトの妻でしょう。彼女は振り返ってしまったために、塩の柱になってしまいます。私達もまた、再臨のときには、自分が大切に思うものに未練を残してはいけません。全てを捨てて、立ち上がる必要があることを今からわきまえておくことが必要です。
あるいは、それ以前に、再臨・終末が来ることをそもそも分かっていないかもしれません。今と同じような日々が続くのだと信じるのです、ノアやロトの時代の人々のように。最後の対話は、厳しいものですが、よく分かります。37節です。はげ鷹の集まる死体の側にならないようにということです。いつどこで、再臨・終末が起こるか私達は知りません(破壊的・反社会的カルトの主張と異なります)。しかし終末・再臨がくることを知っていて、これに備えて生きることはできます。