ヨハネの黙示録8章 1~5節)
1節は、神の右の御手にある巻物の最後の7番目の封印が開かれた時の場面です。この巻物とは、ヨハネ黙示録にとっては世界の終局について記された、いわば神の啓示の書です。
いよいよ、その巻物が開かれる時、天では半時間ほど「沈黙」に包まれたとあります。主が今まさに立ち上がって決定的なことを語られる時、人間のいたずらな言葉は沈黙せざるを得ないのです。わたしたちの信仰においてこの沈黙の意味はとても大きいのです。
わたしたちは、自分の言葉と思いでいっぱいで、心を空っぽにして神の言葉に自分の心を明け渡すことができないでいます。そればかりではなく神の言葉を拒もうとさえします。本当に神の前に沈黙していないからです。
3節以下の、金の香炉と香の煙とは「祈り」を意味します(黙示録5:8、詩編141:2)。天に向かって立ち上って行く香の煙は神に対する祈りそのものです。しかも、この祈りは迫害のため犠牲となった信仰者たちの叫びにも通じる祈りです(黙示録6:9~10)。
5節の「天使が香炉をとり、それに祭壇の火を満たして地上に投げつける」とは、人々の祈りがついに天上に届き、神の時が熟して、神がこの世に対して裁きをなして立ち上がる決定的な時の到来を意味します。その時、神は地上に対して神の義を行なうべく立ち上がり、神がわれわれに対して生きて臨まれるのです。
このようにして神の前にあって「沈黙する時」と「神に祈る時」とがあります。神さまの圧倒的な言葉の前に、わたしたちはただ口をふさぎ、不平や言い訳を止めて、ひたすら黙して神の言葉が語られるのを待って、それに聴こうとする時です。
「僕は聞きます。主よ、お語りください」と祈った少年サムエルのように、わたしたちにも、ほんとうに神の前に沈黙する時があるのでしょうか。自分の言いたいことだけを語り、聞きたいことだけを聞いて満足する自己満足の祈りになってはいないでしょうか。