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 この例えは、とても有名です。しかし例えに入る前に、そのきっかけの出来事をみておきましょう。25~28節です。この問答自体は、ルカだけではなくて、少しずつ違ったニュアンスで、他の福音書にもあります。神を愛し、隣人を愛する、このことは、主イエスや教会に独自のものではありません。当時のユダヤ教でも、既に大切にされていました。だから律法の専門家が正しく答えたのも分かります。


 しかし問題なのは、この後です。29節です。隣人の範囲を確定し限定することで自分を正当化しようとする態度です。


 それに対して、主イエスは例えを語ります。30~35節です。この例えについては、様々な方が子どもでも分かると言います。確かにそうです。大切なのは、「誰が」と問う律法の専門家に対して、主イエスは「誰が隣人になったか」と問い返します。36・37節です。隣人の範囲を定めて、その範囲の中の人々を愛すればよいのだという発想は、今戦争をしている人々の考え方に繋がるものがあります。範囲を決めてしまう発想ではなくて、困っている人・助けが必要な人の隣人に「なる」ことが大切です。


 そして、「なる」ことの大切さを知ったキリスト者は、次に、自分はそうできているだろうかという問いの前に立つことになります。二つのことを申し上げて終りましょう。まず第一に、私達が助けの必要な旅人であったときに、隣人になってくださったのは、主イエスであったことです。そして第二に、私達はこの主イエスに従うことで「隣人になる」生き方が可能になります。