今日も洗礼者ヨハネの記事です。7~14節は、前回と重なっています。まず前回触れなかった7~9節です。洗礼者ヨハネが語ったのは、厳しい裁きです。「父はアブラハムだ」というのは、ユダヤ人であることを誇ることです。そういう血筋が問題なのではなくて、ただ「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」(8節)ことが大事です。もう裁きの斧は根本に置かれています。だとすれば、群衆が問うているように、「どうすればよい」のかが問題です。

 それに対してヨハネが答えるのは、(前回みましたように)特別な英雄的なことではなくて、まっとうであることです。主イエスを迎え入れるのに、特別なことは必要ない、ただ普通に善良であれ、ということです。

 更に民衆には、洗礼者ヨハネに対して、特別な期待がありました。15~17節です。過酷な植民地支配の中で、彼らが待望していたのは、メシア・救い主・救世主でした。もしかしたら、このヨハネがそうなのではないかというのです。ヨハネははっきりと否定します。履物のひもを解くというのは、奴隷の仕事です。自分には後から来る方(主イエス)に対して、そんな奴隷の仕事をする値打ちすらないといいます。


 ヨハネが主張するヨハネ自身と主イエスの決定的な違いは、その洗礼の仕方です。ヨハネは水で、主イエスは聖霊と火で洗礼を授けるのだといいます。私達は、浸礼か滴礼かの違いはあれ、水で洗礼を授けます。主イエスは火と聖霊です。そこで変わった教派では、水の洗礼の後に特別な聖霊体験があるのだという主張をします。

 私達は、水で洗礼を授けます(私達人間の限界はヨハネと同様水による洗礼です)。しかしそれは同時に主イエスによる火と聖霊の洗礼にもなります。人間の未完成な業を聖霊がいつも助けてくださいます。