今日の聖書箇所で主イエスはファリサイ派の人の家で食事を共にしておられます。37節です。この当時は、話を聞きたい先生を家に招いて食事を共にするということは普通にあったようです。


 ところが、主イエスの所作をみて、この人は不審に・不思議に思います。38節です。私達は衛生的な意味で、食事の前に手を洗います。彼らは、宗教的な穢れを除く意味で身を清めます(沐浴か手を洗うことか分かりませんが)。


 そういう点で、主イエスは実に自由な方であられました。細かい規則に拘泥するファリサイ派の人々とはまるで異なります。その一端が主イエスの言葉から分かります。39~42節です。外側はきれいにするが、内側が強欲と悪意に満ちています。神は、内側も外側と同様にきれいに作られました。しかしファリサイ派の人々、そして私達人間の罪が内側を汚してしまいます。次の施せというのは二種類の読み方があります。以前の口語訳聖書では「内側にあるものを清めなさい」でした。今回の新共同訳のほうが原典には近いといえます。


 そして彼らの細かさは、十分の一を厳密に捉えるところに表れています。神に献げる献金は、十分の一が適切だと、ユダヤ教では考えてきました(旧約聖書の根拠もあります)。破壊的カルトのように生活を壊してしまうほどの捧げ物でもなく、あるいは生活していて痛くもかゆくもない少ない額でもなく、実に優れた知恵でしょう。しかしそれでは、名目の十分の一なのか、手取りの十分の一なのかという議論も起こります。私達はそういう事柄について、一人ひとりが神の前に祈りつつ決めたらよいと申し上げます。「このようにすることが正しい」という正解はありません。ですから、ファリサイ派の人々のような香辛料の十分の一も、というあり方が否定されるのではありません。ただそこで問題になるのは、正義の実行と神への愛がおろそかになってはいないか、です。このことはファリサイ派の人々だけの問題ではなくて、私達にとってこそ大切なことです。自分の内側がどうなっているのか、点検してみましょう。