主イエスは今回のカファルナウムで、礼拝の後でペトロの家に行きました。そしてシモンのしゅうとめを癒しました。38・39節です。ペトロの妻がどうしていたのかは描かれていませんが、不在だったのでしょうか。来客のおもてなしはしゅとめの役割であったようです。
人々が病人を連れて来るのは、日が暮れてからです。40節です。安息日には働いてはならないので、日が暮れるのを待ったものと思われます。主イエスは一瞬で一斉に癒されるのではなくて、一人ひとりに手を置いて癒されます。主イエスの癒しの業は、機械的なものではなくて、一人ひとりをきちんと見つめて、一人ひとりを癒される事柄でした。そして、悪霊のことが描かれます。41節です。フツウの人々よりも、悪霊の方が主イエスの正体が分かっています。しかし今はまだそのときではないので、主イエスは悪霊が語ることを許しません。
朝になります。主イエスは一晩中癒しの業をなさったのでしょう。一段落したのでしょうか、主イエスは、恐らく祈るために人里離れた所へ出て行かれます。しかし人々は、主イエスを見つけ出して引き止めます。42節です。彼らの気持ちも分からなくはありません。主イエスがいてくだされば便利です。ありがたいのです。
しかし主イエスは、彼らを残して去っていきます。43・44節です。その目的は明らかです。カファルナウムの人々の都合のために主イエスは来たのではありません。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせる」ためです。これは、十字架に掛かられる時の主イエスの思いに通じるものがあります。「なければならない」は、人間としての主イエスの意志ではなくて、神の意志を優先することです。神がお決めになったことだから、どうしても必然です。「ほかの町」の中に、私達幕張も入っていて、今も主イエスが励んでくださっていることを喜びましょう。