前回は、ペンテコステで、聖霊を冒涜する罪、また心配しなくても、必要なときに聖霊が教えてくださるのだということをみました。私達が「恐れ」なく生きる秘訣は、聖霊によりたのむことです。
そのように主イエスが語っておられる所で、群衆の一人があることを願い求め、主イエスはその願いには答えにならないことを語られます。13・14節です。
私達の感覚では、主イエスを弁護士か何かのように頼るのはおかしいという感じがします。しかし当時は、主イエスのような方に自分の財産のことなどを願い出ることは、普通のことであったのかもしれません。しかし主イエスは否定的なことしか答えません。そして更に一つのお話をなさいます。15~21節です。
ここで主イエスが戒めておられるのは、貪欲の罪です。貪欲とは何か。それは、自分が与えられているものに満足しないで、「もっともっと」と求め続ける罪です。それがよくないことはすぐに分かりますが、この金持ちはそうではありません。豊作の時にどうしたらよいか、箴言に思案しているだけです。それだけならば、「愚かな者よ」と言われる必要もないでしょう。しかしこの人は、19節です。自分の財産、自分の蓄えに信頼して、安心しようとします。だから20節のような言葉になります。この人の問題は、神・聖霊に頼るのではなくて、財産に頼ったことです。なぜ「もっと、もっと」という貪欲の罪が起こるかといえば、神に頼らないで、モノに頼るからです。
神にのみ頼って生きるときに、私達は、神の前の豊かさを与えられて、何が起きてもだ異常な生き方が可能になります。私達は、聖霊に頼る生き方を少しずつでも身に着けていきましょう。