前回まで三つの見出されたもの(羊、銀貨、放蕩息子)の例えでした。そこで大切なことは、見出した者の喜びと、その喜びに連なる者になるということです。
そこまで主イエスは、ファリサイ派や律法学者の方々を中心に人々に語っておられました。しかし今日の箇所は、はっきりと「弟子たちに」語られます。1節前半です。この管理人の例えは、どうにもすっきりしない例え話ではないでしょうか。1節後半~8節前半です。不正を行っていた管理人が、自分が生き延びるために、更に不正を重ねます。そしてそのことをほめられます。主人が、この例え話の中の主人なのか、あるいは主、イエス・キリストのことなのか、議論の分かれるところですが、どちらであれ、ほめられているのは事実です。そこでほめられているのは、不正か正しいかに関わりなく(そんなことは飛び越して)抜け目のないやり方、賢さです。
この賢さ、忠実さについてはこの位にして、いま一つ大切なポイントは、13節です。私達は、二人の主人に仕えることはできません。神か富かどちらかであって、両方に仕えることはできません。ただしそれは、主イエスが富を軽んじておられるのではなくて、神に代わって主人になろうとする富の誘惑は、大きく強いものなので、主イエスは注意を喚起します。富とは、この世界の価値があるとみなされる全てのものです。そしてそれらが私達人間の主人になることを防ぐ最も効果的で役に立つ方法は、まっすぐに神に仕えることです。私達は神を主人とし、神にのみきちんと仕えるとき、どのような富の誘惑もはねのけることができます。
神にのみ仕えるからこそ、富もまたきちんと扱い、神のために用いることのできる(富からの)自由を私達は生きます。