今日でこの世界の暦の上では最後の礼拝です。尤もこの新しい会堂での礼拝はまだ三回目です。先週がクリスマス礼拝で来週が新年礼拝なので、講解説教が今だけ一回おきです。 前回は三度目の(最後の)受難予告でしたが、弟子たちは主イエスの言葉の意味を理解しません。神が隠しておられたからです。後に(主イエスの十字架と復活の後に)弟子たちは理解して、思い起こすことでしょう。


 登場人物は一人の盲人です。主イエスは「あなたの信仰があなたを救った」(42節)と宣言しておられます。ここから、救い(今回の場合は目が見えるようになること)に至るような「信仰」があるのだと私達は誤解しがちです。確かに、救いに至るにはただこの方、主イエスに望みをおく以外にないと信じているという点では、「あなたの信仰が…」と宣言されるに足る信仰です。しかし彼の目を癒したのは、主イエス・神の力であって、信仰そのものではありません。


 私達は、この盲人をどのように見るのでしょうか。少し間違えてしまうと、「この盲人はかわいそうな人だ、私達はそこまでひどくない」と受け止めてしまうことになりかねません。しかし果たしてそうでしょうか。ヨハネ福音書9章41節。実は私達は見えているようでありながら見えていません。だから私達は見えない者として、「ダビデの子よ、憐れんでください」と叫ぶしかないのです、この盲人と一緒に。


 そしてこの私達の祈りは、主イエスによって聞かれ、私達は健全な信仰生活を営むことができるのです。