今日の聖書箇所は、前回のぺトロの否認の予告と、次回のゲツセマネの祈りの記事に挟まれて、比較的目立たない注目されない箇所であるかもしれません。


 以前に主イエスが弟子たちを派遣したときには、何ももたせないで派遣しました(9章など)。しかし今や違うと仰います。まず、以前の派遣のことを思い起こさせます。35節です。


 そして今回は、異なるといいます。36節と38節です。なぜ今回は、以前の派遣の時とは異なるのでしょうか。主イエスは、弟子たちのもつ剣二振りに対して、「それでよい」、「それで十分だ」と仰います。今世界では様々なところで争いや戦争があります。私達はこのような時代にあって、この主の言葉をどう読めばよいのでしょうか。確かに武器自体がは二千年前と現代ではまるで違います。ボタン一つで大勢の人々を殺すような兵器はこの時代にはありませんでした。だからこの箇所と現代ではそもそも前提条件が異なります。


 この箇所で主イエスが、剣をもつことを認めたのは、37節が深くかかわっています。これは、唯一イザヤ書の53章12節です。救い主、メシアが、罪人の一人に数えられるというのです。このことが、主イエスご自身の身に起こります。そのとき(既に逮捕される時点で)弟子たちは逃げ出してしまいます。そのような弟子たちの弱さ、脆さを主イエスは既にご存じであられました。だから、ぺトロの否認も予告なさったし、弟子たちが剣をもつこともお許しになりました。


 現代に生きる私達はどうでしょうか。命を司るのは神のみであって、私達人間が手を出してはならない領域であることを私達は知っています。主イエスが復活なさる前の弟子たちのような不確かさの中を生きるのではありません。復活の主イエスが私達にはおられるので、私達は不安定に不確かに生きるのではなくて、信仰にしっかり立って生きます。