前回は、故郷ナザレで受け入れられないで、最終的には崖から突き落とされて死ぬ、そんな危機的状況でした。尤もまだ主イエスの(死の・十字架の)時は、まだ来ていませんから、主イエスは不思議な仕方で彼らの間を通り抜けて立ち去ります。
今日の箇所は、それとは対照的に前回の纏めの箇所(14・15節)と同じで、主イエスがその力を発揮されます。まず、31・32節です。なぜ人々が驚いたかというと、この言葉に権威があったからです。
権威とは何かということを考え始めると、これはとても難しいです。一筋縄ではいきません。他の箇所に、律法学者のようにではなくて権威ある者として、という言葉がでてきます(マタイ7章29節、山上の説教の最後)。だから、律法学者のように、知識をもって解説をするのではないということです。この講壇から語られる説教は、どちらかといえば、律法学者の解説に近いかもしれません。しかしここに神の霊・聖霊が働いて、力ある神の言葉、権威ある言葉となります。私達は、このカファルナウムの礼拝から、二千年の時を経ていますが、ここに主イエスが聖霊においておられ、ここで権威をもって働いておられるので、ここにも主イエスの権威ある言葉が響きます。
その次に出てくるのは、汚れた悪霊です。33~35節です。主イエスは悪霊を追い出します。悪霊に取りつかれた人に、何の傷も負わせずに。神の霊、神の権威と、悪霊とは決して相容れないものです。(二コリント6章14節以下、参照)
私達も当時の人々と一緒になって、この出来事をこの言葉を驚きましょう。36・37節です。しかし驚くだけで終るのではなくて、この権威ある言葉に生かされて生きようではありませんか。