前回は、思い悩むな、ただ神の義を求めれば必要なものは与えられるという箇所でした。そのような神の義を求める生き方は、別の言い方をすれば、今日の箇所で勧められているように、目を覚まして待ち続ける生き方です。35・36節です。これ自体は僕としての役割をきちんと果たしているだけです。
主イエスのお話で特徴的(異常)なのは、帰って来た主人のなさりようです。37節です。主人が僕たちの給仕をする、これは異常なことでしょう。しかしこの世界で異常なことを実際になさったのが主イエスです。主イエスの十字架はまさにそのようなものだったのではないでしょうか。本来仕えられる主人である主イエスが、私達の罪を赦して私達を迎え入れるために、十字架の死を受け入れてくださいました。
だから私達はこの主イエスが再びきてくださる終末・再臨のときを待ち続けるのです。「主人はまだ来ないだろう」と油断して居眠りをするのではなくて、いまかいまかと待ち続ける、それがまた神の国を求める生き方です。
最後に、38~40節です。人の子、主イエスはおもいがけない時に来ます。だからこそ、「今はまだ来ないだろう」と油断するのではなくて、いつ来てもよいように待ちます。ここに「待ちつつ急ぎつつ」というキリスト者の生きる姿があります。私達はいつも、このような心構えで日々を生きていきましょう。