前回の悪魔の誘惑をへて、いよいよ今日の箇所から主イエスの宣教活動がはじまります。まず、14・15節です。ガリラヤでも、故郷ナザレ以外では、評判が良かったことが描かれています。評判が地方一帯に広まります。


 そして主イエスは、故郷ナザレに行きます。主イエスのなさることは、「いつものとおり」です。16~21節です。このイザヤの箇所を主イエスが指定なさったのか、たまたまなのかは分かりません。ただ決定的なのは、主イエスの宣言、「今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」です。イザヤが告げるような恵みの年は、主イエスが来られることによって、既にその実現がはじまります。この言葉をまっすぐにナザレの人々が受け入れれば良かったのです。しかし実際は、22・23節です。主イエスをナザレの人々は子どもの頃から知っています。私達はそれに対して憧れにも似た「うらやましい」という気持ちをもちます。しかしそのこと、主イエスを知っていたことがつまずきになってしまいます。私も東駒形教会では、未だに「てっちゃん」です。御言葉を取り次ぐ使者として受け止めることは難しいでしょう。


 主イエスは仰います。24~27節です。旧約聖書の幾つかの例をあげて、神の恵みの業は、思いも寄らない者に働くことを語ります。


 人々は、憤慨して、主イエスを殺そうとします。29・30節です。かなり極端だと思いますが、神の言葉、神の恵みに対する人々の反応というのは、本来そういうものです。受け入れて恵みを生きるか、拒絶して恵みの言葉そのものを消そうとするか、二つに一つです。私達は、「今日実現した」という恵みの言葉を受け入れ、恵みを生きましょう。