今日の聖書箇所は、「しかし」ではじまっています。これはあまり深い意味のない接続詞にもなりますが、こう翻訳されておりますように、逆説の意味です。前回は、幸いと不幸について語られていました。そして、こういう人々が不幸だと語られた後で、「しかし」とはじまります。ですから、不幸を宣言される人々について、「ざまをみろ」という思いではなくて、敵を愛するという思いで接しなさいということです。27~31節です。敵を愛するというのは、(マタイでみたように)感情の問題ではありません。行動の問題です。気持ちは極端にいえばどうでもよい。「敵を愛する」行動をすることが求められています。


 ギブアンドテイクのような「愛する」は誰でもしていることです。32~34節です。私達キリストに従う者は、それと同じであってはならないのです。もっと厳しいこと、もっと難しいこと、もっと激しいことが求められています。35・36節です。「敵を愛する」ことを目指すときに、私達の模範となるのは、いと高き方、神です。神が恩を知らない者にも悪人にも情け深いように、私たちも情け深い者になることが求められています。神はこのように情け深いので、全ての人を救うために、独り子主イエスに十字架の死を与えました。この十字架の愛のゆえに、私達は情け深い者となって、世間の常識を越えて、敵をも愛することができるのです。


 それはまた裁かない生き方です。37・38節です。私達は、自分の量る秤ではかり返されることをよくわきまえていなければならないでしょう。