今日の聖書箇所で、主イエスが食事をともにしているのは、ファリサイ派の人の家です。36節です。その町には、よく知られた罪深い女がいました。37、38節です。想像するととても感慨深く思い描くことのできる光景であろうと思います。この様子にただ感動していればよいのです。しかし主イエスを招いた人は、ファリサイ派らしくとても批判的です。39節です。


 主イエスはこの人の思いを見抜いて、一つの話をなさいます。40~43節です。色々とややっこしい推論もできますが、ここでは極めて単純に、多くを赦してもらったほうが多くを愛するという話です。


 そのような単純な理解でよいのだということは、この後の主イエスの言葉からも分かります。44~47節です。まず主イエスは、シモンに女を見るように言います。シモンは差別的な意識・眼差しの中で、女を見ようともしなかったのでしょう。そしてシモンのもてなしのいい加減さと女のもてなしの丁寧さを仰います。主イエスは、この女の涙と香油に大きな愛をみます。


 そして女に言います。「あなたの罪は赦された」。最後の48~50節です。一つ考えておきたいことは、このシモンは、罪深い女ほどには罪を犯していないから、赦される罪も少なく、その結果主イエスを愛することも少なかったのかという問題です。女は確かに大きな罪を赦されました。そして主イエスを大いに愛しています。しかしシモンも実は、本人が気が付いていないだけで、神の前に大きな罪を犯しています。肝心なことは、自分の大きな罪に気が付いて主の前に大きな許しを与えられて生きるのか、それとも主イエスの愛を受け入れないがゆえに自分も主イエスを愛することなく生きるのかということです。