今日の聖書箇所は、一般にゲツセマネの祈りと呼ばれている箇所です。ただし、この福音書では、「ゲツセマネ」という地名は出てきません。エルサレム周辺の地名にあまりなじみがないルカが、読者もそうだろうと判断して省いたのかもしれません。
今日は特に三つのことに注目しましょう。
まず第一に、このときの主イエスの思いです。42節に、主イエスの祈りがあります。主イエスは神の子、神ですから、様々なことをご存じのはずです。勿論神のご計画(神の子である主イエスの十字架において私達全ての者を救うこと)をご存じです。しかしまた神が全能であることもご存じですから、別の仕方で救いをもたらす可能性も考えたことでしょう。このとき主イエスは、大喜びで十字架への道を歩まれたのではなくて、「この杯(十字架)を自分からとりのけてください」と真剣に祈ったことでしょう。しかしまたそこには、「御心のままに」という祈りもありました。主イエスは、「この杯を…」と真剣に祈りつつ、また「御心のままに」と祈ります。ここに主イエスの心情がよく現れているのではないでしょうか。
第二に、「悲しみの果てに眠り込んでいた」です。私達は、悲しみから眠りにつながるでしょうか。どのような悲しみであったのか、各自思い巡らしてみてください。
「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っている」とはどういうことでしょう。私達にはできないことをここで、主イエスは語っておられます。私達は実に弱いのです。しかしこの私達が「起きて祈っている」ことができるように、主イエスは十字架に死んでくださいました。だから私達は私達なりに、主イエスに守られて祈り続けることができます。