今日の聖書箇所には、一組の姉妹、二人の女性がでてきます。38・39節です。姉のマルタは、女主人として、主イエスとその弟子たちをもてなします。しかし妹のマリアは、足もとに座って聞き入っています。この箇所について、私が昔から不思議に思いますのは、マルタに対する擁護がよく聞かれることです。中には、マルタ派、マリア派と呼んで、二つの類型があって、そのどちらにも教会には必要なのだというのです。
しかしここで、主イエスはそんなことを語っているでしょうか。後半もみましょう。40~42節です。主イエスの発言ははっきりしています。マルタのあり方ではなくて、マリアのあり方を高く評価しておられます。
マルタの問題は何でしょうか。マルタが皆をもてなすために労苦すること自体は否定されてはいません。ただ、あれも必要、これも必要と、多くのことに思い悩んで、心を乱してしまっていること、それゆえに、妹に文句を言うののではなくて、主イエスに文句を述べていることです。
以前、ある青年に相談されたことがあります。自分はこんなに一所懸命主の言葉を聞き、この世界で正義が実現していくくように活動している(具体的には社会活動です)のに、全く活動しようとしない人々がいる。人を裁いてはいけないと思いつつも、心の中で活動しない青年たちを裁いてしまう。自分はどうしたらよいのだろう、と。それに対するアドバイスは、人を裁いてしまう自分の罪としっかり向き合いなさいということです。私達が感謝と喜びをもって生きていれば、他者を裁くことにはなりません。
必要なことは一つだけです。この、主の言葉に聞き入るという大切なことを大切にするとき、私達はそこから出発して、様々なことをなしていくことができます。